朽木氏秀
凡例 朽木氏秀 | |
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時代 | 南北朝時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 出羽三郎[1][2] |
氏族 | 朽木氏 |
父母 | 父:朽木経氏 |
兄弟 | 氏秀、氏綱 |
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朽木 氏秀(くつき うじひで)は、南北朝時代の武将。
経歴
正平23年/応安元年(1368年)8月、六角氏頼より近江高島本庄後一条地頭職を安堵される[1]。同5年、越中国岡成名などを弟の氏綱より譲られたが知行せず、惣領家は氏綱に移った[1]。建徳2年/応安4年(1371年)河内に蜂起した南朝方を追討した[2]。天授3年/永和3年(1377年)7月、再び朽木庄内針畑の地を授与され、同年12月には近江安主名相論につき足利義満の裁許を得た[1]。応永14年(1407年)6月以降に死去[1]。